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愚直なまで建築家として生きる岡河 貢の「建築」とは....

岡河 貢/OkagawaMistugu


岡河 貢/OkagawaMistugu

新たな出会いの始まり


吾輩・路地ニャン公の飼い主が、尾道青年会議所(JC)メンバーを中心とした任意のまちづくり団体である第一次「尾道じゅうにん委員会」を結成したのが1986年だった。やがて飼い主は、JCという組織枠を越えての人材を結集したいとの思いが強くなり、1988年には一旦「尾道じゅうにん委員会」を解散したが、尾道のまちづくりを実践するため、必要な人材を巻き込み、同年第二次「尾道じゅうにん委員会」を結成した。1988年というこの年は、三つの大きな事業を抱え、飼い主にとって実に多忙な年であったと回想している。
その三つの事業の一つが、食文化イベント【第1回グルメ・海の印象派ーおのみち】だ。このイベントは、「食」に関わる4つの柱で構成されていた。その柱の一つ、【食談ー我等、尾道派】は、吾が飼い主が以降11年もの長きにわたり関わり、多くの文化人を招聘することで、尾道のまちづくり団体の人材ネットワーク化と知的活性化の要となった。
第1回【食談ー我等、尾道派】のゲストは、初めてということもあり、尾道出身で活躍する文化人を中心に招聘したが、その一人が建築家・岡河 貢だった。以降、建築家・岡河 貢は、尾道のまちづくりを考える上で欠かせない優れたブレーンとして、吾輩の飼い主の知的活性化に多大な影響を与えた。
吾が飼い主が忘れもしないことがある。それは、ミッテラン大統領時代にフランスの文化大臣であったジャック ラングの言葉を建築家・岡河 貢から紹介されたことだという。それは、『文化が経済を誘発する時代が来る』であった。将来の尾道のまちづくりの肝であり、日本では数少ない歴史都市である尾道が、当然ながら歴史や文化を生かし、まちづくりの味方にするという手法は、尾道の座右の銘だと直感的に思ったという。
ところが、残念なことに今の尾道は歴史や文化といった本質を蔑ろに、スクラップ&ビルドで上っ面の流行りばかりを追いかけている。都市の風景を決定づける近代の歴史的建造物が無惨にもどんどん解体され、市議会議員からは子供たちの教育環境が低下傾向にあると耳にする。吾が飼い主は(もちろん猫である路地ニャン公も)『尾道』の近い将来を危惧し憂いているが、果たしてそれは間違いであろうか。

建築家・岡河 貢(おかがわ みつぐ)プロフィール



「尾道の家」(1990年)
1953年広島県尾道市生まれ。1979年東京工業大学工学部建築学科卒業。1981年同大学院修士課程修了。1986年同大学院博士課程単位修了。
1985年~86年パリ・パルク・デ・ラ・ヴィレット公園の設計チーム、バーナード・チュミ事務所に参加しフォリー L6を担当。1983年~98年設計事務所パラディサス、2013年~パラディサスアーキテクツ主宰。
東洋大学、東海大学非常勤講師を経て、1998年広島大学工学部助教授。2001年広島大学大学院工学研究科社会環境システム専攻助教授。2010年広島大学大学院工学研究科社会環境システム・建築学専攻准教授。2015年工学博士。現在,広島大学Special professor(特別教授)

【論文】


「ル・コルビュジエ全作品集における建築空間の情報伝達手法に関する研究」(東京工業大学)
【実現作品】「尾道の家」(1990年)イタリア/アンドレア・パラッディオ賞、「ドミノ1994」(1994年)、「向島洋ランセンター展示棟」(1995年)、「ドミノ 1996」(1996年)、向島洋ランセンター プリズム パヴィリオン」(1998年)、「広島大学工学部コミュニケーションガレリア」(2001年)、広島大学病院YHRPミュージアム(2018年)、広島大学福山通運小丸賑わいパヴィリオン(2019年)

「賑わいパヴィリオン」(2019年)

【著書】


現代建築の批判的分析である「建築設計学講義」(鹿島出版会/2017年)がある。
【アンビルド作品】「フランス政府Plan Architecture Neveau賞プロジェクト」(1984年)、新建築設計競技「2001年の様式(1985年2等入賞)」(審査員 槇文彦、原 広司、アルド・ロッシ)、新建築設計競技House with no style(1992年2等入賞)(審査員 レム・コールハース)
『東京計画2001』(宇野 求・岡河 貢  鹿島出版会)を通じて21世紀の建築の探求を続けている。
2015年から「瀬戸内海文明圏 これからの建築と新たな地域性創造・研究会」幹事として顧問・伊藤豊雄、特別顧問・総合資格 岸隆司とともに21世紀の建築と地域のありようを探求している。

ここでは、さまざまな建築雑誌に取り上げられてきた建築家・岡河 貢の作品に、彼自身のコメントが掲載されていたので、建築がずぶの素人である吾輩・路地ニャン公だが、その一部を勝手に抜粋しご紹介させていただくことにした。

未知の近代建築に向けてII


瀬戸内内海に面する古くからの港町の細長い短冊状の敷地に、建築家・岡河 貢が取り組み、設計した「ドミノ 1994」と題された建築物についてのコメントを抜粋しながらご紹介する。この建物は新建築住宅特集jt 1994年7月号に掲載された。

『この住宅が計画される以前には、この敷地内にあった古い土蔵に木造モルタル2階建ての建物が増築されて住居を構成していた。
第二次世界大戦の戦災を受けなかったこの町の町家のほとんどは、近代以前の建物がその基礎となって現代生活が営まれている。このような近代以前の木造の町家の建て替えは、「われわれの近代建築」とは何かという問題について、否応なく立ち向かわされることになる。
日本の古い町においてはどこにでもあるこの条件は、一般的にはすでに日常化してしまった鉄骨ラーメン構造あるいは鉄筋コンクリート造という近代技術による「いわゆる近代建築」への建て替えと連続していく。』

ル・コルビュジエのドミノシステム


『ここでは、ル・コルビュジエの近代建築の方法であるドミノシステムが思考の出発点となった。ドミノシステムと鉄骨ラーメン構造の「いわゆる近代建築」との思考のずれから出発して、わずかだが決定的に異質な近代建築を追求することにより「われわれの近代建築」とは何かということが問題とされている。ドミノシステムは柱によってスラブを支え、それを階段で結んだだけの構造システムである。
ヨーロッパでは石造の重い壁と小さな開口しかない閉ざされた暗い空間は、この軽い構造システムによって近代空間へと開かれることになった。ドミノシステムは、この構造システムの中に自由に壁+開口部を組み込むことによって、建築のシステムから住居をつくる開かれたシステムとして提案されている。
ここでは周囲の建物の建て替えによる将来の変化に対しても自立した採光と通風を確保するために、敷地の南端と敷地の中央東側に庭空間を取り、残りの敷地全体を鉄骨の構造システムが3層のスラブを支えている。間口の両端の鉄骨柱の径を小さくするため、各層での人の動線を可能な限り邪魔しない位置に、150mmのH鋼の斜傾柱が上下方向にランダムに不連続に建物全体に配されて構造のシステムを形づくっている。このランダムな柱は、斜傾することにより、垂直に立てられたときよりも約2割も地震時の変形に対して有効作用することが、構造家の林貞夫氏によって確認されている。』
構造概念模型(写真提供/PARADISUS)

近代建築の透明性


『構造システムの中の各室に対して仕上げのハイアラーキーを作り出すことで、構造システム内における居住部分としての各部屋の自立性を確保すると共に、より大きな全体のシステムの中で生活が営まれることが意図された。
1914年のル・コルビュジェの<ドミノ>が第一次世界大戦の廃墟の残材によってその外壁は間仕切りがつくられるのに対して、この住宅ではその3層のスラブ上での家族の生活を成り立たせるための素材と設備を工業生産品、つまり資本主義戦争(殺戮を伴わない平和な戦争であるが、耐久消費財を絶え間なく消費させるシステムとしての戦争)の生産品(残材)から自由に選び取って組み立てられている。システムキッチンもビデオモニターもバス器具も。また長い伝統的な生活の記憶の残材からも自由に選び取って生活は組み立てられる。タタミや古い家具を使って。
ランダム性によって支えられたスラブは、現代の生活のためのすべてが通過していく水平面として宙に浮かべられている。そしてここでは、家族という不確定なプログラムもこの上を通過していく。
次にここでは、近代建築の重要な性格である透明性が内部空間において新たに展開された。コーリン・ロウの論文「透明性」(tranceparency』における実の透明性(物質の透明性)と虚の透明性(図像の重なり)は、ここでは多様に重ねられることにより、より多面的な広がりとしての透明な空間が追求された。
ランダムに多層にわたり重なり合う傾斜柱は、この透明な空間性(虚の透明性)に新たな迷宮性と分裂性を加えている。そして、この建築では透明な内部空間の中に家族の生活が重ねられることによって、今日的な意味で建築が生きられる場たり得ることが希求されている。』

尾道の家(1990年)


海側に向かって近代建築の形態言語が敷地の前の海の波や揺らぎと連動することで、海のそばで住む機能として20世紀末の近代建築とされている。建築としての海。陸側では伝統的な木造の茶室と庭と塀が落ち着いた街並みのコンテクストを作りあげている。建築としての伝統風景。
岡河 貢/OkagawaMistugu
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向島洋ランセンター・展示棟(1995年)


ガラスの温室にせずにコンクリート無梁板構造にすることで柱を疎密に立て、展示だけでなく、洋ランに囲まれたコンサートなどの文化的な催しを可能にしている。ガラスの温室の空調費用や清掃費用を抑え、庭園と一緒に多機能建築のプログラミングとすることで公共建築の新しい公共性を実現している。洋ラン展示と公共空間のプログラミングとしての建築。
岡河 貢/OkagawaMistugu
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向島洋ランセンター・プリズム パヴィリオン(1998年)


遊歩道の脇に立つ休憩所をガラスのスリットに浮かぶフラットルーフの建物とすることで、建築はガラスに映る自然の風景と風の通過点として風景と同化することが試みられている。風景が屈折して建築になる。

ドミノ 1994(1994年)


岡河 貢/OkagawaMistugu
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ドミノ 1996 かわぐちかいじ邸 (1996年)


自然光が入り込む垂直のヴォイド空間としての中庭が2箇所あり、住居と仕事場と屋上庭園を垂直に結びつけることで、創作者とスタッフと家族のための自然と内部空間が立体的に3次元に組み立てられた建築である。自然と空間が建築として組み立てられる。
岡河 貢/OkagawaMistugu
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広島大学工学部コミュニケーション ガレリア(2001年)




マーメード カフェ 広島大学店(2007年)

カフェはヨーロッパの都市では室内化された都市空間である。郊外に移転した大学の中に誰でも使える場所としてのカフェを作ることで新しい大学空間を実現した。地元の企業が運営しているのも地方大学ならではの福利厚生空間と地域企業の結びつきが建築となる。

広島大学病院 YHRPミュージアム(2018年)




広島大学福山通運小丸賑わいパヴィリオン(2019年)


地元企業による地域大学の学生の起業や様々な活動の応援のための建物は、樹木の葉の重なりのように木造の正方形の小屋根がいくつも重なり合う。木々が増えて森になるように将来の増築ができる。建築としての自然林。

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